1.暗闇より夜魔来たる-1
あなたはきっとこんな私をお許しにはならないでしょう…
ですが、私はあなたを守る以外の何かを他に知らない
たとえあなたがこれからどれだけ苦しんだとしても
私は決してあなたを解放したりはしない
この日もまた、帝都フェザーンでは
皇帝ラインハルト?フォン?ローエングラムの居城「獅子の泉」の会議室において定例の会議が行われていた。
「…では、フロイライン?マリーンドルフ。その件はそのように」
会議を取り仕切ったのは、銀河帝国3長官及び帝国宰相を兼務し、
皇帝の最大の腹心とも呼ばれるジークフリード?キルヒアイス主席元帥その人であった。
彼はローエングラム王朝確立以来そのほとんどの政務を
ラインハルトに代わり唯一取り仕切ることを許されている人物である。
この日ラインハルトは朝から発熱のために会議の欠席を余儀なくされ、
その会議の運営をキルヒアイスに委ねていたのだった。
王朝確立以来まだまだ問題は山積みのため、その執務は激務を極め
ラインハルトが体調を崩したのも無理のないことだった。
キルヒアイスは無理に体を起こすラインハルトを強引に押さえ込んで今日の会議に出席していたのである。
”きっと怒っていらっしゃるのだろうな…ラインハルト様”
などと、考えながらキルヒアイスは次々と上る議題の数々を迅速に片付けてゆく。
今日は予定よりもかなり早く会議に終わりが見えてきていた。
丁度キリのいい所で会議に小休止を入れると会議の参加者達に珈琲が運ばれてくる。
「いやあ、キルヒアイスが議長だと早くていいな」
「そんな…」
ミッターマイヤーがそんな労いの言葉をキルヒアイスにかける。
「…じゃ、なかった。失敬、キルヒアイス主席元帥」
「お褒めのお言葉有難うございます…あ、今は公式の場ではありませんので呼び名はお気になさらず」
いつも気さくなミッターマイヤーの失言にもキルヒアイスは笑ってそう答えた。
「は、それは助かる。どうも最近はお互い重い肩書のせいで肩が凝っていかんな…」
「ですね…確かに忙しくて息をつく間もありませんから。
元帥もここしばらく家の方にお戻りになっていないのではありませんか?」
苦笑いを浮かべたミッターマイヤーと顔を合わせながらキルヒアイスはそんな世間話を交わす。
そんな様子にクスクスと上がるヒルダの笑い声。
「あら、ご謙遜なさることはありませんわ。キルヒアイス元帥の働きはここにいる
メンバー全員を含め万民がお認めになっていることですもの」
ヒルダのその言葉に回りの元帥府の面々もそれに相槌をもって答える。
ラインハルトと違うところはその卓越した事務能力だろうか。
ラインハルトのように感情を表にだすこともなくとにかくキルヒアイスのそれには無駄がない。
迅速かつ適切な処理能力には皆も舌を巻くところである。
穏やかな口調で難なく問題を片付けていくその様子を誰もがたのもしく思っていた。
「…ところ、で」
話題を変えるように今度はロイエンタールが話しをもちかける。
「陛下のご容態の方はどうなのだ?キルヒアイス」
「熱は…大したものではありません、ただ最近は特にご無理をなさることが多かったものですから」
キルヒアイスが遠慮がちにそう告げるとロイエンタールはようやく話に納得する。
「…なるほど。卿が休ませた訳か」
「そういうことです」
「それでしたら、キルヒアイス元帥。早く陛下の下にお戻りにならないといけませんわね」
笑ってそう答えるヒルダにはラインハルトの怒る姿が目に浮かぶようであった。
「…です、ね」
困ったような笑い顔でキルヒアイスはヒルダに言葉を返す。
「オマエも大変だな、キルヒアイス…」
「別に、そんなことは…」
そんな同情のようなミッターマイヤーの声にキルヒアイスはわずかな否定をもってそれに答える。
だがこればかりは他の誰もそれを変わってはやれない。
ラインハルトが親友と呼び自らの傍におくこと望んでいるのは他ならぬこのキルヒアイスだけなのだから。
「キルヒアイス元帥…」
会議に参加していた帝国の治安維持を担当する
憲兵総監のウルリッヒ?ケスラーからさらに話題が続けられる。
「最近、ヴェスターラントの残党勢力に不穏な動きがみられます」
「穏やかではありませんね…詳しくお聞かせいただけますか?」
ケスラーからの連絡はまるで寝耳に水のような話であった。
「皇帝誘拐!?」
「…はい、かなり大掛かりなものと思われます。どうやら地球教が絡んでいる可能性も」
「地球教が…ッ!?」
会議室が地球教の言葉を聴いて一層ざわめきたった。
地球教。
それは銀河帝国ローエングラム王朝の設立以前から存在し
同盟、帝国、フェザーンにまたがりその勢力を水面下に広げる今だ謎の多い計り知れない第3勢力だった。
ローエングラム王朝設立によってその活動に極端の制限を強いられた地球教は
王朝打倒にその力を注いでいるという。
宗教とは名ばかりのサイオキシン麻薬を始めとする麻薬密売といった分野でも
その悪名は高く、薬づけの信者達の結束は絶対服従の軍人よりもタチが悪かった。
「今度はヴェスターラントの残党勢力と手を結んだという訳ですか…」
”手段を選ばないということか…しかしヴェスターラントとは。
いつまでたってもあの男(オーベルシュタイン)には祟られる…ッ”
顔色には出さずキルヒアイスは一人心の中でそう愚痴る。
「…警護についてはキスリング親衛隊長の方にすでに説明を済ませております」
「分かりました…ケスラー憲兵総監、引き続き徹底的な調査をお願いします。この件を最優先に」
「かしこまりました…あと、陛下へのご報告はいかがなさいますか?」
「…それは私の方から致しましょう。オーベルシュタイン元帥」
ケスラーとの話をそこで終えて会議の書類をまとめ終えたオーベルシュタインをキルヒアイスが呼びとめた。
「…なにか?」
「お話しがあります…執務室までご同行願えますか」
キルヒアイスが手を執務室に向けてオーベルシュタインを招く。
「承知した…」
室内に緊迫した空気が流れ再びざわめきが起こった。
どちらにしろこの二人が内輪で話すとなれば
穏やかな話などでは到底有り得ない事を皆が当然のように承知しているからだ。
「…あの、キルヒアイス元帥」
「今日の会議はこれまでとします…フロイライン、報告は後でお願いします」
ヒルダの呼びかけにキルヒアイスがきっぱりと皆にそう言い放った。
そしてそのままオーベルシュタインを伴うとキルヒアイスはその場を後にした。
その後姿をその目で追いながらミッターマイヤーとロイエンタールは
「さあ…どうでるかな、キルヒアイスは」
「…ふむ、だがヴェスターラントの件は陛下と同じくキルヒアイスにも禁句のことだ。
あの件にオーベルシュタインが絡んでいることはまず間違いあるまい。
あの時…キルヒアイスは陛下のお傍を離れ陛下の代理として辺境星域の制圧にあたっていたのだからな。
自分が陛下のお傍を離れることがなければあの悲劇は起こらなかった…
事実そうであっただろうし、そう思っているのではないか?」
などと、言葉を漏らし執務室に消える二人の姿を皆で見送った。
執務室に入ると話を切り出したのは意外にもオーベルシュタインの方だった。
「私を呼ばれたからには、ヴェスターラントの件…ですかな」
「…そうです。あなたの労した愚かな策のおかげでローエングラム王朝は深い影を残してしまいました」
キルヒアイスは腰に下げたブラスターをオーベルシュタインに向けると
オーベルシュタインはそれに驚いた様子もなくその言葉を返した。
「私を、どうするおつもりか…キルヒアイス元帥」
「…あなたは私を見誤っています。陛下の前で銃口を向けたときもそうでした…
私はたとえ無抵抗なものでも、それがたとえ無垢な子供であっても
陛下のご命令ならばこの引き金を引くことが出来る。
そして今ならば私の意志でこの引き金は簡単に引くことが出来ます…ですが」
話を続けながらキルヒアイスは
オーベルシュタインに向けたブラスターの銃口を下ろす。
「ですが、あなたにはいずれヴェスターラント虐殺の張本人として活躍して頂かなくてはなりません…
今はまだ、殺す訳にはいきません」
「…今はまだ、と申されたか」
「そうです、今はまだ…その時期ではありません…まだあなたにはやるべきことが残っています。
あなたには陛下のためにこれまでの忌まわしきもの全てを背負って逝って頂かねばなりません…」
オーベルシュタインもそれは自分の中で納得していた。
自分はそのための存在であるということを。
劣悪遺伝子排除法を生み出したゴールデンバウム王朝打倒のため
オーベルシュタインがラインハルトに誓った絶対の忠誠と目的は
それをもって証明することにあった。
「…以前、あなたは私におっしゃいました。自分は敵ではない、と」
そしてキルヒアイスはブラスターを腰に収めた手で
オーベルシュタインを自分と向かい合う席へと招く。
「あなたにやっていただきたいことがあります…」
席に腰を下ろしたオーベルシュタインにキルヒアイスは、そう言って用件を話し始めた。
「なるほど…」
全ての話を聞き終えるとオーベルシュタインはそれを受け入れて承諾する。
「…しかし、キルヒアイス元帥。卿は私と心中なさるおつもりか?」
「あなたを陛下にお引き合わせしたのは私です…私にも責任はあります。
陛下を守るために必要とあらば私はなんでもします」
そう言うとキルヒアイスは席を立ち、オーベルシュタインもそれに続いた。
「先程の地球教の件は、フェルナーをお使いになるが宜しかろう…」
「…それでは、この件はそういうことでお願いします」
部屋を出る際、扉の前にいたオーベルシュタインがキルヒアイスに振り向き様に声をかける。
「卿のおっしゃる通り私は卿を見誤っていた…
陛下の影になっていて今まで誰もが気づかなかったのでしょう…果たして
陛下も卿の本質をどれほどご存知かは知らぬが、これだけは言えますな。
卿は確かに陛下にとって必要なお方だ」
キルヒアイスがオーベルシュタインのその言葉に目を向けたが
そのままオーベルシュタインは軽く一礼して扉を開けて退出してしまった。
オーベルシュタインが退室し、ただ一人キルヒアイスはその執務室に取り残される。
結局キルヒアイスはオーベルシュタインを密かに自分の直属に置くことにした。
いざ、ヴェスターラントの件が明るみにでた際には、
陛下の傍の参謀は自分の直属であるということにして
ラインハルトの身代わりとなって自分がその非難の的となるために。
だが、今はその件を明るみにする訳にはいかなかった。
帝国内には問題が多すぎてまだまだ不安定な状態にあるからだ。
だからキルヒアイスは今はまだ、とオーベルシュタインに言ったのだ。
キルヒアイスにもオーベルシュタインにもまだ成さねばならない議題が山積している。
だから全てが片付くまでオーベルシュタインとキルヒアイスは共同戦線を張ったのだった。
それは到底友と呼べるものではなくどちらかといえば共犯者といった意味合いの方が強いものである。
だが二人のそれは立場や目的は違えども
ともにローエングラム王朝を…いや皇帝を守ろうとする殉教者ともいえた。
1.暗闇より夜魔来たる-2
キルヒアイスが静かに胸元から銀色の懐中時計を取り出した。
それは以前クリスマスの贈り物として
アンネローゼからラインハルトとキルヒアイスにと贈られた金銀揃いの懐中時計だった。
揃いの金は勿論今もラインハルトが持っている。
中を開くとそれはロケットになっていて
そこにはアンネローゼとラインハルト、そしてキルヒアイスの3人の懐かしい写真が添えられていた。
”…いかなる災いからも必ずこの私がお守り致します、ラインハルト様”
キルヒアイスはその写真を見ながら出会った頃の昔を懐かしむように
その懐中時計を胸元で握りしめ、瞼を閉じてロケットにそっと口付ける。
”ラインハルト様…”
しばらくそうしていたキルヒアイスだったがラインハルトが自分を待っているため
ずっとこうしていてもいる訳にもいかなかった。
残った仕事を早々に片付けてキルヒアイスは一刻も早くラインハルトの下に戻らなければならないからだ。
懐中時計を胸元にしまい込むとキルヒアイスはヒルダを呼んで
執務机の上にあった書類に再び目を通し始めたのだった。
やがて仕事を終えたキルヒアイスはヒルダを退出させてそのままラインハルトの下へと向かった。
なにやらラインハルトの居住区のあたりが騒がしい。
そのままキルヒアイスがラインハルトの部屋の前までいくと、
ラインハルトの側近であるエミールの姿がキルヒアイスの目に飛び込んできた。
「キルヒアイス元帥…ッ」
「…どうなさいましたか?」
「陛下がどこにもいらっしゃらないんです…ッ!!」
あちこちで親衛隊の声があがっておりすでに親衛隊の方でも捜索を開始しているようだった。
「キルヒアイス元帥、キスリング親衛隊長がお見えになりました…!」
「進展は?」
「只今、全力でお探ししております…しかし、どうもこれは」
「え…?」
中からの侵入の形跡はまったく見られないとのことだった。
どうやらラインハルト自ら外に出た可能性が高いというのである。
”…まったく。あの人は、この大変な時期に…何故”
目を僅かに細め片手を顎に添えて考え込むキルヒアイスだったが
考えるその間もなく胸元の通信機の音が鳴った。
それはフェルナーからの連絡だった。
どうやらオーベルシュタインが早速フェルナーに命じすでに行動を起こさせていたようである。
流石にオーベルシュタインは有能でその辺にも手抜かりがなく仕事も速い。
「フェルナー准将、陛下は今どちらに…?」
『…キルヒアイス元帥、少しやっかいなことになりました。
陛下は何者かに呼び出しを受けていたようなのですが、
そのまま地上車に乗せられて移動させられてしまった模様です』
「……ッ!」
すでに敵は動き出してしまっていた。
全てが後手に回ってしまったのである。
一瞬目の前が真っ暗になりそうになりながらも
キルヒアイスは引き続きフェルナーからの連絡を聞き続ける。
『すでに部下が後を追っております…場所は…』
「…わかりました、すぐに向かいます。引き続き連絡をお願いします」
通信機を切るとすぐにキルヒアイスは行動を起こした。
「ケスラー憲兵総監に至急連絡を…!キスリング隊長、陛下をお迎えに上がります…頭数を揃えて下さい」
「は…ッ!」
上手くいけば先発させたケスラー達によって早々に鎮圧され
ラインハルトは無事に保護されているはずである。
キルヒアイスはキスリングに指示を出すとそのまま用意させた地上車に乗り込み
急いでフェルナーからの報告があった現場へと向かった。
現場に到着するとすでにケスラー達により救出作戦は展開されていた。
「陛下はどちらに…?」
「今だ発見には到っておりません、只今総力を挙げて捜索中です」
会話を遮るように突然建物から連続の爆発音が辺りに鳴り響いた。
たまらずキルヒアイスが腰に下げたブラスターをその手に持って建物に向かって走り出す。
「元帥、危険です…ッ」
ケスラーの制止も聞かずキルヒアイスはそのまま爆発が続く建物へ突入を開始した。
慌ててケスラーも近くにいた人間をかき集めてその後を追う。
「…ラインハルト様!どちらにおられますッ…ラインハルト様ッ!!」
キルヒアイスがラインハルトの姿を求めて必死の声を上げる。
爆発が立て続けに起こる中、建物内を探し回っていたキルヒアイスの視界の隅に
ようやくラインハルトの姿が捉えられた。
「ラインハルト様…ッご無事で!?」
そこには建物の奥に壁際で蹲るような格好のラインハルトの姿があった。
衣服に多少の乱れはあったものの外傷はなく拘束はなにもされていない。
だがキルヒアイスの言葉にラインハルトからはなんの反応がない…いや、なさすぎた。
「…ライン、ハルト様?」
キルヒアイスがラインハルトの顎を掴み上げ自分の方へと向かせてその瞳を覗き込むと
ラインハルトのその瞳は焦点も虚ろで、ぼんやりとしていた。
ラインハルトの体をキルヒアイスが抱えこむとラインハルトは小さな笑い声をあげながら
キルヒアイスの頭に腕を絡めてくる。
どうやら見張りもろくになく拘束もされていなかったのには訳がありそうだった。
”…幻覚剤かなにか薬物を投与されたのかも知れない”
「キルヒアイス元帥…ッどうかお早くッ」
建物内では今だ頻発に爆発音が鳴り響いている。
ケスラーのその言葉にキルヒアイスはラインハルトを脇で抱え込みながらそのまま出口へと急いだ。
そうして建物の倒壊が始まる頃にはキルヒアイス達は建物から脱出することが出来た。
「陛下、ご無事で…!」
キルヒアイスは一目を避けるようにそのままラインハルトのその姿を背中のマントを外して覆い隠す。
「…陛下のご様子が変なのです。なにか薬を飲まされたようで…
急いで医師を呼んでください。城には私がこのままお連れしますので…」
「なんと…ッ!」
キルヒアイスのその言葉にケスラーは驚きの声を上げながらも早速医師の手配をするべく連絡をとった。
その時近くにいたフェルナーの姿を見つけたキルヒアイスは労いの言葉をかける。
「…フェルナー准将、よくやってくれました」
「早速お役にたてて何よりです…建物内の関係者はケスラー憲兵総監が全て捕らえてあります。
こちらはケスラー憲兵総監におまかせして、私の方はこれらと地球教との関係を調査しようと思うのですが」
フェルナーの言葉にキルヒアイスが怪訝に眉を顰めた。
「やはり、地球教と関わりが…?」
「建物の関係者のそのほとんどはヴェスターラントの残党勢力と思われますが…
その可能性は極めて高いと私は考えます」
確かに規模が大きすぎる。
そしてラインハルトの行動をこれほど早く知りえる情報力といい
その用意周到な手口にただならぬ裏の存在があるというところは
キルヒアイスにも否めないところだ。
「…わかりました、引き続き調査を続けてください」
「元帥、地上車の用意が整いました」
キスリングの声にキルヒアイスはラインハルトを連れてその場を後にする。
「では、ケスラー憲兵総監…あとはよろしくお願いします」
キルヒアイスはその場をケスラーに任せラインハルトごと後部座席に乗ってそのまま地上車を発進させた。
ラインハルトを覆ったマントを外すとそこには無邪気に笑うラインハルトがいた。
その身をキルヒアイスに凭れさせ何が可笑しいのか
クスクスと笑いながらキルヒアイスの服の襟元を触っては戯れる。
その有様にキルヒアイスはラインハルトをこのようにした犯人達にかつてない憎悪を覚えていた。
”許さない…この購いは必ずさせる…その命すでにあると思うな。
近いうちおまえ達の身にかつてない恐怖が襲いかかる…
その時こそ、おまえ達は生きていることを後悔することになるだろう”
ラインハルトの身体を黙って自分に引き寄せて
キルヒアイスはただ静かに怒りをその身に滾らせる。
その言葉の通り犯人達は決して怒らせてはならない者を敵にしたことを
やがて身をもって知る事となる。
キルヒアイスがラインハルトの居城?獅子の泉に辿りついた時には
すでにその情報をいち早く聞きつけた元帥府の面々やヒルダ達も駆けつけてきていた。
「おい、キルヒアイス…!陛下は…ッ!?」
「陛下…ッ」
「陛下はご無事です…ですが、まず医師の診断を仰がねばなりません…どうか前を通してください」
挨拶もそこそこにキルヒアイスは脇に抱えたラインハルトを
マントに包み込んだまま医師団の元へと連れてゆく。
ラインハルトはそのまま寝室へと運ばれそこで医師団達による診断が行われた。
部屋の外ではその診断結果を聞くべく訪れた元帥府の提督達とヒルダが待機している。
その背を壁に凭れさせラインハルトの寝室の扉を見つめながらキルヒアイスもまたそこでその結果を待った。
やがて診断を終えた医師団たちがキルヒアイス達を寝室の続き間へと呼んだ。
だが診断の結果はキルヒアイス達の予想を遥かに超えたものだった。
「急性麻薬中毒!?」
「そんな…ッ」
皆がその言葉に愕然として顔を真っ青にさせて騒然の中、キルヒアイスは医師団に治療法を訊ねた。
「ドクター…治療法は?」
「方法は二つあります…一つはこのまま薬を抜けさせること、ただしこれはかなり大変なことです。
今は鎮静剤で眠らせておりますが、禁断症状が始まればそれも効き目がなくなります。
薬が抜けるまでは幻覚症状を始めとする吐き気、嘔吐といった
あらゆる禁断症状に全身は襲われ、その症状が治まるまでに発狂してしまう者も少なくはありません」
「…もう一つの方法は?」
その言葉に医師が瓶を一つ差し出した。
「こちらです…さらに強い薬で一時的に正気を取り戻すことが出来ます。
ですが、これはあくまで薬の効用で一時的なものです。
治療といえたものではありません…さらなる中毒を引き起こすことになりますから」
「毒をもって毒を制すか…」
そんなロイエンタールの言葉にミッタマイヤーからの激昂が飛んだ。
「馬鹿をいうな…ッ陛下を中毒患者にするつもりか!」
薬を抜けさせるか、一生薬漬けか…
”…ラインハルト様ッ”
キルヒアイスは医師団からその背を返し壁に向かってそのまま拳を激しく壁に打ち付ける。
室内に壁を叩きつける鈍い音が響き渡り、皆が壁を叩きつけたキルヒアイスの背中を見つめた。
そこからでは壁に向かうキルヒアイスの表情を伺い知る事は誰にも出来なかったが
震える身体からはそのどうしようもない胸の内の様子が見てとれた。
何か痛いものを見てしまったようにキルヒアイスのその姿に皆が顔を顰める。
キルヒアイスは壁に打ち付けた拳の痛みによってわなわなと震える身体を無理やり押さえ込むと
その感情を表情に露わにすることもなく再び医師団の方へと向き直った。
「…手錠の鍵をください」
キルヒアイスは無表情のままそう言って
ラインハルトが薬が切れた時の用心のために医師団によって施された手錠の鍵を医師団に求めた。
医師団はその言葉に応じてキルヒアイスにその鍵を差し出す。
「…薬はどのくらいで抜けますか」
「量にもよりますが正気に戻るのに早くて3日から1週間弱、
禁断症状が完全に出なくなるにはまたさらに時間を要します…」
その言葉にキルヒアイスは手錠の鍵をその手に強く握りしめる。
「わかりました…この件はどうか内密にお願いします」
医師団は禁断症状や症例の簡単な説明を済ませるとその場を退出した。
「キルヒアイス…卿は」
「この件に関しては箝口令をしきます…陛下のお体から薬が完全に抜けられるまで、
陛下は療養中ということで陛下の執務は私がしばらく代行します…
フロイライン、スケジュールの方を調整して下さい」
立ち尽くす面々にキルヒアイスがそう告げる。
その言葉でキルヒアイスが自らラインハルトの薬を抜けさせる役を
かってでたことにその場にいる全員が瞬時に気がついた。
「元帥、なにもあなたがなさらずとも…ッ」
「いいえ…他の者に陛下のそのようなお姿をお見せする訳にはまいりません。これは私の仕事です…」
淡々と発せられるキルヒアイスの言葉に全員がその耳を傾ける。
「…これより陛下の居住区への出入りを一切禁じます。
キスリング隊長、この先何人たりとも陛下のお傍に人を近づけてはなりません。
ケスラー憲兵総監には引き続き関係者の取調べの方をよろしくお願いします」
口答えは許されなかった。
キルヒアイスの命令はラインハルトがいない以上それは絶対のもので何者にもそれに逆らうことは出来ない。
「用件は以上です…」
静まりかえった室内でキルヒアイスは最後にその話を締めくくると、
キルヒアイスその背を皆に向けて退出を命じた。
寝室の扉が閉められてようやくキルヒアイスはラインハルトと二人きりとなる。
まだ鎮静剤が効いているのだろうか、ラインハルトは穏やかな吐息を漏らしてよく眠っている。
だがそれも薬が効いているうちのことでじきに恐ろしい禁断症状が始まるだろう。
キルヒアイスは以前クロイツナハ?ドライにおいて
サイオキシン麻薬の事件に巻き込まれ麻薬によって引き起こされた
中毒患者の恐ろしい有様を目の当たりにしたことがあった。
だからこそ、その薬の恐ろしさをよく知っている。
これからラインハルトに襲い掛かる禁断症状は
その想像を絶するものであろうということも…
ラインハルトの綺麗な肌に傷がついてしまうと、
キルヒアイスはラインハルトを拘束する手錠を外し
近くにあったシーツを引きちぎり両手両足を縛りベッドの足に固定させた。
そのままラインハルトの眠るベッドの端に腰をかけて座りこみ
キルヒアイスはそっとラインハルトの額に自分の唇をあてる。
そしてその身を抱きながらラインハルトの頬に摺り寄せるように頬を合わせた。
”これからまたあなたと同じ夢をみましょう…今度の夢は長くて苦しいものになりますが、
あなたが薬以上に私を欲しがるまでは決してあなたを離しはしない”
今まさにキルヒアイスとラインハルトの二人は
長い戦いの夜を迎えようとしていた。
2.歪んだ真珠-1
闇夜を照らすあの月はまるで歪んだ真珠のよう
微妙に正円を描かないそれを
まるでその光で覆い隠すように自らを包み込む
その完璧な正円を求める姿に私はどこかあなたを見てしまいます
いくらその光にその身を隠しても
ずっとそれを見ている私にはその姿すらも全て愛おしい
「あ…うあ、ああッ!?」
深夜遅くにようやくラインハルトはその意識を取り戻した。
目が醒めたラインハルトの手足はキルヒアイスによって
引きちぎられたシーツでベッドの端へと繋がれその身は捕らわれの状態にある。
「…お目覚めになりましたか」
窓際に椅子を寄せて静かに読書に耽りながらラインハルトの目覚めを待っていたキルヒアイスは
そのまま席をたってラインハルトのいるベッドへと近づいてゆく。
「…いやッだ、怖…いッ」
ラインハルトの焦点の定まらないその瞳から浮かび上がる生理的な涙。
禁断症状によってじっとしていられない身体は
身動きを封じられた状態であってもその身の自由を求めて暴れ出す。
「無駄ですよ…その様にされても」
「離、せ…ッ離せええーッ!!うあああ…ッ」
ラインハルトの寝室から絶叫が上がりその声は居住区へと響き渡った。
「…始まったな」
ラインハルトの悲痛の叫びをキルヒアイスより警備を命じられたキスリングだけが聞いていた。
”長い夜になりそうだ…”
だが辛いのは悲鳴を聞いている自分ではない。
禁断症状で苦しむラインハルトは元よりその姿を目の当たりにしながら世話をする
キルヒアイスの心中はさらに想像を絶するものであるだろう。
それは今も辺りに響き渡るラインハルトの悲鳴からもキスリングには伺い知れた。
自分に今出来ることはそのキルヒアイスから命じられた人払いの任を確実に遂行することにある。
キスリングはそう自分に言い聞かせて帽子を深く被りなおした。
「そのようにお声をあげられますな…喉を痛めてしまいます」
そう言うとキルヒアイスは布でラインハルトの口元を封じ込んでしまう。
「ぐ…ッ!うーッ!!…んんッ」